大峰山の女人禁制
女人禁制解放への歴史



「大峰山女人禁制」の開放への歴史をひもとけば
「大峰山女人禁制」をめぐる動き 「女人禁制」および、世界・国・奈良県の男女平等への流れ

1872年

明治政府による太政官布告神社仏閣の「女人禁制」解除、修験道廃止令

1872年

富士山「女人禁制」を解く
〈実際の女性登頂は1832(天保3)年〉
1873年 山上蔵王堂(大峰山寺)の山開きに女性の登拝を許可しようとしたが、洞川地区側が反対。村会で反対決議 1906年 高野山、女性の寺院参拝解禁
1902年 葛城神社社司の娘、2人の僧侶と大峰山山上ヶ岳登頂を試みる 
1915年 大峰山系踏破中大阪女性教員隊、地元民に追い返される 1915年 東大寺二月堂修二会の参篭所汚穢を忌むとの理由で女人禁制存続
1926年 男装の女子師範生2人が登山しようとしたが、登山口の洞川から追い返されたことに因み、洞川の青年と処女会員が討論会を開催。「郷土発展のため解禁すべし」との意見で一致
1928年 大峰山開放派と否開放派、二派に分かれて論議
1929年 大阪の22歳と39歳の女性、着物に菅笠姿で新道から大峰山登山
1936年 大峰山一帯が吉野・熊野国立公園に指定され、洞川区民大会を開催にて「女人禁制」を解くことを満場一致で決議。地元では女性を歓迎し、大峰山登山道路自動車専用道路着工「保健、信仰の男性独占は不可」と洞川区長ら語る。「『本堂』冒さずば女人解禁を認めよう」と、大峰信徒八島役講、女人規制を協議。知事に披瀝、吉野信徒総代にしかるべき斡旋陳情。しかし、行者さん強硬に解禁反対を陳情し地元役員が「女人禁制」維持を決議
1937年 兵庫県西宮市の山徒倶楽部の男性と同伴女性一行が「女人禁制」区域を11月敢然走破の新記録樹立
1946年 近畿登山協会が大阪、奈良の高女学生350名(うち50名は五條高女学生)の登頂を陳情。地元寺院は差し支えなしとの回答。しかし、近畿登山協会に対して大峰山地元の信徒代表が、緊急総会を開き、「女人禁制」を決議。すでに登山決定した各学校を訪れ翻意を求める
近畿山岳協会M氏が進駐軍の許可を得たと称して女性教師と女学生15人、米国女性と共に柏木から登頂を試みるが地元住民らに小笹の宿で説得される
奈良県軍政部神社寺院課の陸軍中佐が「女人禁制」を認める 
女人結界口に和英両文で掲示
産業経済新聞婦人部の女性記者が男性記者と案内人を含め4人で柏木口から山上ヶ岳に登る(1956年に報告)
1940年 桜井高等女学校生徒大峰山系稲村ヶ岳に登頂
1945年 国際連合成立(国連憲章採択)衆議院議員選挙法改正(女性参政権実現)(日本)
1948年 大阪飛田の次郎長鮨の女主人が大峰山に登ろうとしたが止められる 1948年 「世界人権宣言」採択(国連総会)
1949年 照明講(大阪府)女性信者ら15名を交えた80名が大峰山登頂、奈良県の26歳女性も参加
1956年 東京「登山とスキー普及会」 女性登山者が頂上を目指したが、信者や住民千人以上がピケをはり阻止される 1958年 大峰山系稲村ヶ岳「女人禁制」を解く
1960年 奈良県は大峰山の観光開発に乗り出すことになり地元側と意見交換したが、女人開放を前提とする県の意向について、吉野山で洞川、吉野山両区信徒代表、八役講社関係寺院らの協議の結果、今年も「伝統」を守りつづけることを決議 ・1946年の大火で全焼した大峰山護持院龍泉寺が復興完成し、「女人禁制」の境内を女性に開放
1964年 女性が稲村ヶ岳へ登るため龍泉寺に“竜王の滝”と呼ばれる女性信者専用の水行場をつくる
1970年 「女人禁制」区域縮小 吉野側は五番関まで12キロ、洞川側は清浄大橋まで2キロ後退
(1)戦中、戦後の人手不足で女性が山仕事に入るため。
(2) 女性登山者が増え、鉄道会社が女性の入れる地域の拡大を申し入れ。
(3) 観光バスのガイドが降りた後、ドライバーが一人で狭い山道を走らなければならず、女性ガイドが誘導をするため。(大峰山寺などの関係者が協議して決定)
1975年 「女人禁制」の霊場大峰山のふもと天川村洞川地区「女人結界門」近くに「女人揺拝所」ができる 1975年 ・第1回世界女性会議(メキシコ)「性差別撤廃宣言」と「国連婦人の10年行動計画」を決定
1978年 議員立法で男女雇用平等法案提出、廃案を繰り返す
1979年 女性差別撤廃条約採択(日本は1985年批准)
1980年 第2回世界女性会議(コペンハーゲン)
1981年 男女の職業と生活の両立条約・「ILO156、165号条約」採択(ILO総会)
1987年 大峰山寺本堂(重文)「昭和の大修理」完成女性は法要に参列できず 1985年 第3回世界女性会議(ナイロビ)、「女性差別撤廃条約」批准、「男女雇用機会均等法」成立(日本)
1992年 外国人女性2人が登山、僧侶と悶着あり 1991年 「育児休業法」成立(92年施行)(日本)
1994年 吉野町で開催の「日本山岳修験学会」研究者が「『女人禁制』は女性を『けがれ』とみる差別意識からくるもの」と指摘 1993年 世界人権会議(ウイーン)(女性の権利は人権であると宣言)「女性に対する暴力撤廃宣言」採択
1994年 男女共同参画審議会設置(政令)、高校で家庭科の男女共修開始(日本)
1995年 「女人禁制」英文の看板を立てる 1995年 第4回世界女性会議(北京)「北京宣言」と「行動綱領」を採択・「育児・介護休業法」の成立、法制化(日本)
1997年 2000年大祭をめどに、大峯山寺関係三本山・護持院が「女人禁制」を解くことを明らかにしたが、役講側は「講を運営して行く上で護持院の提案を受け入れられない」と申し入れ書を提出し、地元洞川も時期尚早と反対表明 
「大峰山」に「女人禁制」の看板設置
1997年 男女共同参画審議会設置法/「男女雇用機会均等法」改正(努力義務が禁止へ)(日本)
1999年 男女共生を目指す女性10人大峰登頂 1999年 女性差別撤廃条約選択議定書(個人通報制度・国連)、「男女共同参画社会基本法」公布・施行、「改正男女雇用機会均等法」施行、「育児・介護休業法」全面施行、「労働基準法」一部改正施行、「介護保険法」施行
2003年 「紀伊山地の霊場と参詣道」ユネスコ世界文化遺産登録に推薦決定
国際記念物遺跡会議(ICOMS)代表が吉野山金峯山寺を調査
「大峰山(山上ヶ岳)」の「女人禁制」の開放を求める会(仮称)呼びかけ人を募り、結成準備会設立
12月 「世界文化遺産登録にあたって「大峰山女人禁制」の開放を求める会設立
(以下「開放を求める会」という)
2000年 国連特別総会「女性2000年会議」(ニューヨーク)
2001年 ・「奈良県男女共同参画推進条例」公布・施行、「奈良県男女共同参画審議会」設置
・「ストーカー規制法」「DV防止法」制定
2004年 1月 「開放を求める会」が署名活動を開始
3月 「大峰山」に「女人禁制」の看板を新たに設置
4月 「開放を求める会」が1万2千筆あまりの署名をユネスコ本部、国、県、関係寺院、地元、関係諸機関などに提出
6月 奈良県議会で「大峰山女人禁制」問題を女性差別の視点で質問。さらに、禁制区域が公道であり、道路法違反と追及。また、女性差別を内包する世界遺産登録にあたり、県費の支出は『男女共同参画社会基本法』や『奈良県男女共同参画条例』に違反すると指摘
7月「紀伊山地の霊場と参詣道」ユネスコ世界文化遺産に登録決定
「世界文化遺産登録にあたって『大峰山女人禁制』の開放を求める会」を「『大峰山女人禁制』の開放を求める会」と名称変更 
「『大峰山女人禁制』の開放を求める会」がユネスコ本部、県などに向けて公開質問状を提出
2004年 「DV防止法」改正
2005年 『大峰山女人禁制』の開放を求める会のホームページ開設 メール署名受付開始
※参考資料『花ひらく−ならの女性生活史−』『データでみる ならの男女共同参画』『大和タイムス』『奈良新聞』『奈良日日新聞』『朝日新聞』『読売新聞』『大阪朝日新聞』ほか

 
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