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今後の活動報告はFacebookでさせていただきます。
 
金峯山宗務総長 五條永教さんのお話(2015年11月21日)

百日回峯行を満行して蔵王堂に到着した五條永教さん
(10日、吉野町吉野山の金峯山寺)

「38歳、若い宗務総長さんだ」とはお聞きしていましたが、お会いしてみると想像よりもっとお若く感じました。現在の役職に就かれた時、管長の職に就かれた五條良知猊下とご一緒に各所へ挨拶回りに行かれたそうですが、対応される方からかけられる言葉や示される座席の位置などから、「これは間違っておられるな」と感じることが度々だった(実際お供の人と間違われていた)とのことで、「それから、名札を付けるようにしています」と笑いながら胸の名札を指し示されるお顔には、満面の笑みがあふれていました。

10歳と4歳、2児のよきパパでもある永教さんは、お酒は1滴も飲めないそうです。奈良漬でも駄目とのことで、手土産のお菓子を喜んで受け取ってくださいました。お坊さん仲間から、「永教には気を付けろ、あいつは全部覚えているぞ」と冗談をいわれるそうですが、「実際全部覚えています」とおっしゃって、大爆笑となりました。また、60代の私たちがちょうど母親のような年代で親しみを感じてくださったようです。

初めて「大峰山」に登ったのは小学校6年生の時、しばらく間が空いて、高校生で2回目の大峰登山をした頃から、「僧侶になりたい」と思うようになったのだそうです。お若いけれど家庭的な問題などご苦労も多かったそうで、いろいろ遠回りはしたけれど、21歳の時に金峯山寺へ来て小僧から始まった正式な修行の中で、「自分の求めていたものはこれだ」と強く感じたそうです。

○修行は理不尽なこともあるし厳しいものであるが、この世界に入って嬉しかった。立派な使命感などないが、今ここにあるのは、ここでお仕えせよという仏さんのご意思であり、私はここにいさせてもらっている。
○「女人禁制」についてあまり考えたことはない。昔から続いてきたから、そういうことなんやろなと思っているが、女性差別であるとはまったく思わない。人間がしたことではあるが、神さん・仏さんがさせてはる。そうなるべくして、そうなった。人知を超えた神仏の何かがある。
○今生きている私たちはすぐに結果をほしがるが、人間の物差しと、神仏のそれは違う。開放されるべき時がきたら開放される。あなたたちが開放の運動をしていること、今こうしてお話させていただいていることにも全て意味がある。大きな流れの一部分なのだと思う。

 終始笑みを絶やさずお話される内容は、現状維持を支持するもので、これまでにもいろいろなお寺でいろいろな住職さんたちからお聞きしてきたものと大きな違いはありませんでした。でも、これまでにはない温かな何かを感じたのは私だけではないようでした。それは、その若さと純真さの中に、変化を恐れない柔軟さが垣間見えたからでしょうか。

インターネットで検索すると、2009年8月11日付「奈良新聞」に
◇ 吉野町吉野山の総本山金峯山寺(五條覚堯管長)から天川村山上ケ岳(1719メートル)の大峯山寺に100日続けて参拝する修験道の荒行「百日回峯(かいほう)行」に挑んでいた五條永教さん(32)が10日、満行を迎えた。
五條さんは僧や信者、近隣住民ら約80人の出迎えを受け、蔵王堂での満行式で五條管長から証書を受けた。
  同寺から大峯山寺までの参詣道は片道24キロの山道。百日回峯行は前半50日は1日に片道を歩き、山上で1日おきに宿泊。後半50日は日参で毎日深夜に出発し、午後に戻る。五條さんは戸開け式の5月3日から行に入った。
  五條さんはこの日午後2時40分ごろ同寺に戻った。五條管長から「(回峯行の途中に前管長が亡くなり)重い行だったと思う」と言葉を贈られると「ご本尊に大きなご加護をいただいた。支えていただいた多くの皆様のお陰です」と話した。
 五條さんは大阪府和泉市出身で平成11年に同寺入山。行の挑戦は昨年7月に思い立った。「言い訳せず、迷わず行動に移せる自分になるため」だったと言い、「どうして始めてしまったのかと思うこともあったが、ご本尊にお任せすることで乗り越えられた」と晴れやかな表情を見せていた。

 とありました。お会いする前にこの記事を読んでいたら、また感じが違っていたのかもしれません。
(2016年 3月 31日 [木曜日])
カルタとり会を通して「女人禁制」を考える なら男女共同参画週間イベント2015
 参加17団体からなる「なら男女共同参画週間イベント2015」が2015年7月5日、奈良県女性センターで行われ、「大峰山女人禁制」の開放を求める会(以下「求める会」)は、2013年に作成した「カルタ」(いろはうたで詠む「女人禁制」)をとる会を行った。参加者は初めての人もいて、「女人禁制」に関心の深い人が集まった。
カルタとり会は徐々に盛り上がり、カルタを読みながら、解説も行った。「ヘリからも悼む(いた)花束拒否される」では、もし現代にそういう事故が起こり、遺族が追悼の花束を捧げたいといって拒まれたら問題になるのではないかという意見が出た。「トランスも神慮が決める『大峰山』」では、「神慮」と発言した「大峰山」の関係者は、現在は「自分を男と思う人は登ってください」といっている。
 各自がとった札から1枚を選び、感じたり疑問に思うことを話し合った。「鉾の上コンチキチンは男だけ」では、娘さんが小学校のとき、「だんじりに上りたい」といったが、主催者から「女の子は巫女さんができるから」と拒否された。そのときは仕方ないと思ったが、今考えると、話をすり替えられ、おかしいと思うと。「血の穢れだれがあなたを産んだのか」では、みんながその通りと怒ったが、宮内庁では、女官は生理になると仕事を休むことになり、天皇家の穢れ意識に唖然とした。「『慣習』と誰が決めたのいつ決めた」は、「もともとはなかったはずの石と門」とも重なり、1000年を超える伝統よりも人権の視点で考えたいという意見も出た。最後の人は、偶然にも「無関心もっと知ってよ『大峰山』」を提示した。無関心がもっとも問題である。
カルタとり会が終わり、七夕にちなみ、大きな紙に書かれた笹に、それぞれの思いを書いた短冊を貼りつけることにした。参加者全員が色とりどりの短冊に次のようなことばを書いた。
足腰の元気なうちに大峰へ
憲法をこわすな
 女も男も自立した社会の重視を
情熱と言葉の力で変える明日
脱“依存”社会
平和と平等は手をたずさえてやってくる
軍事費よりもオリンピックよりも
戦き世にせぬために合わせ立つ
脱“原発 社会”
 
カルタとり会を通して、「大峰山」の「女人禁制」問題について多くの人に関心をもってもらいたいとつくづく思った。「求める会」が今後できることは、「大峰山」の関係者に聞き取りすることが決まっている。それとともに、多くの人に関心をもってもらうための活動をしていきたいと確信をもった会だった。
2015年 7月 25日 [土曜日]
岡山県後山の「女人禁制」のフィールドワーク(2014年10月25日)
 「大峰山女人禁制」の開放を求める会(以下「求める会」)では、2014年10月25日、岡山県美作市にある後山のフィールドワークを行いました。わたしたちは、後山が「女人禁制」であることを知っていました。しかし、どの場所がどのように「女人禁制」であるかは定かではありませんでした。「大峰山」のようにある一定の領域が頂上まで「女人禁制」とは違うことはわかっていました。なぜなら後山は登山コースとして男女がともに頂上(1344.6m)まで登山することができるからです。
 「求める会」では、やっと後山の「女人禁制」の場所へ行くことができました。そもそも後山は、「大峰山」を「前山」として、その後ろにある西の大峰になぞらえて「後山」といいます。
 「求める会」のメンバー6人と岡山の友人2人が参加しました。後山キャンプ場に車をおき、舟木山登山コースに入り、「行者山参道」に行きます。行者道といっても最初はまったく険しくなかったです。後山川にかかる「入峰橋」という橋を渡る頃から道はだんだん険しくなってきて、しばらく行くと、「垢離(こい)取場(とりば)」があります。そこは女性用の「垢離取場」であり、ここで穢れを落とします。
 登り始めてどのくらい時間が経つのも忘れるくらい険しい道が続きます。わたしたちのなかに登った人がいないので、どこまで登れば「女人禁制」のところに着くのか見当がつかず、しんどさが増します。先頭の人の「着いた−。結界門があった−」という声に励まされ、やっとの思いで「女人禁制」の結界門のところへ到着しました。後から知ったのですが、後山キャンプ場から結界門まで、およそ2キロだそうです。「母講堂」(または「母御堂」)があり、その先が「是より女人禁制」の結界門となっています。女性の行者はここまで登ってくるのです。男女がともに登ってきても、ここで男性行者を見送ることになるのです。
 結界門の横を流れている後山川が少したまり水のようになっていて、ここが男性用の「垢離取場」です。男性はここで穢れを落とし、結界門をくぐり抜けて奥の院をめざします。奥の院は、結界門から地図上で結界門までの倍ほどの長さに思えます。「垢離取場」は男性用が上流にあり、女性の「垢離取場」は下流です。ここでも男女の差が明らかに出ています。
 わたしたちは、「女人禁制」の結界門に数歩入り、記念写真を撮りました。やっと登った結界門ですが、「大峰山」と地形的にはよく似ていると思いました。岩場があってきれいな川が流れているところ、そこで心も体もリフレッシュし癒されたのはないでしょうか。また、「大峰山」とは違っている点もありました。女性行者や信者は稲村ヶ岳というまったく別の山へ登って修行する「大峰山」ですが、後山は行者道の結界門までは男性といっしょに登ることができます。行者道はそれなりの修行の意味があると思われますが、女性はその先の奥の院に登ることを拒まれています。どれだけ辛い道であろうが、体力的に女性が登ることができないわけではありません。男性のなかにもそういう道を登ることができない人もおり、体力の違いをいうことはできません。「女人禁制」である結界門は、女性を排除する境界線であることを、ここでもまた確認することができました。
 しばらく結界門のところにいて、来た道を下り、女人堂となっている護摩堂へ行きました。境内に立ち並ぶ水子供養の地蔵が印象的でした。
 最後に、延命山地蔵院道仙寺を訪ねました。住職は檀家の法事で外出中だったため、住職の妻から話を聞くことができました。話をまとめると下記の通りです。
  
 住職は現在67歳で 30年前に道仙寺に入った。
 道仙寺は建長年間に僧徹雲が開いたもので、もともと現在の奥の院に本堂があったが、 慶長年間に豊臣秀吉に焼かれて、現在の場所に来た。
 真言宗醍醐派のお寺で、檀家もあり、享保の頃からの過去帳も残っている。
 岡山県北には、倉敷の五流尊龍院はじめ、五つの寺が結集している。
 道仙寺のある後山は、奈良の大峰「前山」に対して、西の大峰「後山」である。
 後山は「大峰山」と同じ、修験道の開祖役小角によって開かれたとされ、修験道の中心地として栄えてきた。
後山の修行は、大峰修行を終えて、その後で登る山とされていた。
 役小角を心配して訪ねてきた母を帰したという言い伝えのある母講堂から、八合目、1000メートルの所にある奥の院行者堂までは、現在も「女人禁制」である。
 母講堂の手前に、女性のための垢離取り場がある。女性たちはここで行をする。
 ここから先は女性たちは入れない。講の跡継ぎが減ってきているが、女性の行者さん たちはたくさんいる。
 「上がってもいいのなら、上がりますよ」と、女性たちは言うが、後山は、私有地と いうこともあって、遠慮してもらっている。
 4月18日が山開けで、11月7日が山閉じである。5月8日には、卯月8日祭りとい って、春の大祭がある。
 9月7、8日には、「柴燈護摩供養」がある。それが一番大きな行事である。
 男性たち20人ほどが奥の院に泊まり込む。お米5升、お酒5升などいろいろなものを 準備をして1人15キロほどの荷物を担いで上がる。
 昔ほどではないが、山の上の何もない所に泊まり込むので、そうめんの味噌汁が一番 のご馳走などと男性たちは話している。
2015年 2月 1日 [日曜日]
10周年記念のつどい&カルタ会のお知らせ

2014年3月22日(土)「あすなら」(奈良市男女共同参画センター)にて、10年の活動をふり返り記念のつどいを開催します。
また、「大峰山女人禁制」を多くの人に知ってもらうため「女人禁制いろはカルタ」を作成しカルタ会を行います。
「カルタ」にした「いろはうた」は求める会で作成し、説明文をつけて冊子として刊行しました。ぜひ、お読みください。

『いろはうたで詠む「女人禁制」』
発行:2014年12月14日
A5判 105頁  頒価:300円
2014年 3月 1日 [土曜日]
昨年の署名件数
昨年も賛同署名ありがとうございました!
おかげさまで、2013年は11名の署名がありました。
また、昨年から賛同カンパはお願いしていませんので、ページを削除しました。参道してくださったみなさま本当にありがとうございました!
(2014年 1月 31日 [金曜日])
宮城泰年さん(本山修験宗管長・聖護院門主)との話し合い
「大峰山女人禁制」の開放を求める会(以下「求める会」)は、「女人禁制」の開放運動の一環として、「大峰山」を維持管理する関係者と「話し合い」をしたいと希ってきた。「大峰山」を維持管理するのは、寺院と信者組織からなっているが、寺院は、三本山(聖護院、醍醐寺、金峯山寺)と五護持院(龍泉寺、喜蔵院、東南院、桜本坊、竹林院)である。
 そしてこの度、三本山の一つである本山修験宗管長・聖護院門主の宮城泰年さんとの話し合いの場が実現した。日時は2012年6月15日13時30分から。場所は聖護院である。本山は昨年10月9日に行った金峰山寺の田中利典さんに次いで二人目である。
 当日、「求める会」の世話人4人が応接間において宮城さんとの話し合いを行った。
 以下は、そのときの話し合いの「要約」で、後日、宮城さん自らに手を入れていただき、ホームページ掲載の許可をいただいた。

☆☆☆☆☆

2000年の役行者御遠忌を目指して、三本山と護持院は開放で一致していたが、1997年の信者、地元との話し合いで総反発に遭うとは予想できなかった。役講の勢いがつよかった。判断が甘かったと思う。それ以後、御遠忌が過ぎたらと、話し合いをもつきっかけを探していたが、1999年の女性の強行登山で開きかけた貝の口が閉じてしまった。感情論が先に立っている。私もそのような外圧ともいえる中での開放は間違っていると思う。護持院も2000年が過ぎたらまた話ができると思っていたが、外部からの力に対して感情的になっており、「自分たちに任せてほしい、地元を説得する」という態度から一転して、「もう絶対に開けない」と言う意見が主流になってしまった。人間の感情はひっぱたかれると痛いから、貝の口を閉じてしまっている。それを開けようとするのは容易ではない。
それ以後、表立って「女人禁制」については話し合いをしていないが、役講の人とは個人的に雑談としてだが話はしている。
トランスジェンダーの人からの問いかけについては、その問題提起がされること自体が「大峰山」が特殊な山であることを示している。
「大峰山」は信仰の山である。信仰が生きているから「女人禁制」が生きているといえる。大峰山寺の信仰団体の持つ決定権によって禁制が守られている。江戸時代以前は戒律の立場から、今は戒律でなく、習慣によって「女人禁制」といえる。
 信仰の前には、男も女もない。わたしの考えは開けることでぶれてはいないし、聖護院内局では意見がまとまっている。なかには女性もいる。その全員が、開放する気持ちは変わっていない。開放の範囲・方法・期間とか、個人によって違うところもあるが、開放する意志は修験三本山会議以後少しもぶれていない。
 開放については三本山は決定権をもっていない。護持院には影響力をもっているが、三本山は大峰山寺の特別関係寺院であり、歴史的宗教的な意味であるということになっている。ただ一定の影響力があるので、例えば、八つの役講社があるが、聖護院に属している役講役員と意見の交換は可能だ。個々の役講社がどこの寺院に属しているかは一般の人にはわからないと思う。
又以前のように女性信者と意見交換の場を設けたい。内局と相談し時期なども考えたい。
開放については、女性が「大峰山」に登りたいということが問題ではない。登るとか登ることができない問題ではないことは承知している。ただ、近年頓に熱心な女性山伏の増加は尊重しなければならない。教団内部の女性から開放を願う声が出てくるのが、キーワードだと思う。
 修験道の男性山伏は減少の一方である。山伏になろうとする人も非常に少なくなっていて、自分が聖護院に入った昭和32年頃は近畿で120の講があったが、今は半減し、ことに連続のオイルショックやバブル崩壊の景気後退は、中小企業を中心とする山伏世界に大きな影響を与えている。地元の旅館も行者宿から女性が泊まりやすいように観光化へ変身しつつある。大峰山上宿坊の宿泊者も激減し、私は危機感を持って見ている。 もしも経営上の理由や、世間の声でなし崩しに「女人禁制」が解かれる恐れがあるならば、宗教者である当事者から先に声をあげて、信仰の立場で開放に向かうようにしなければ汚点を残すことになる。

☆☆☆☆☆

 話し合いのなか、登った女性のせいにして、「女人禁制」を守ろうとする考えを宮城さんも口にされたので、心外だった。公道であるし、誰にも止める権利はないし、宮城さんからそのような話を聞くとは思わなかった。
 それでも「大峰山」側の当事者として、開放する考えがぶれていないことが宮城さん個人だけではなく、聖護院としても一致をみていることは、「求める会」としては期待できると感じた。これまでインタビューした福井さん、田中さんの開放しないという開き直りに対して、今後も話し合いを続けていくことができると確信した。また、女性信者との話し合いの場をもつことにも積極的なので、協力をお願いしたい。
 この時代に、女人禁制」を解くことがこれほどにも困難なことを実感するが、聖護院から始まる開放への動きを注視したい。
「大峰山女人禁制」の開放に向けて、今後も「大峰山」の方々とさらに話し合いを続けていきたい。
(2012年 8月 1日 [水曜日])
2011年10月9日田中利典さん(金峯修験本宗宗務総長)インタビュー
「大峰山女人禁制」の開放を求める会(以下「求める会」)は、「女人禁制」の開放運動の一環として、「大峰山」を維持管理する関係者と「話し合い」をしたいと希ってきた。
 そしてこの度、三本山の一つである金峯山寺の金峯修験宗宗務総長である田中利典さんへのインタビューが実現した。日時は2011年10月9日10時から。場所は金峯山寺宗務庁であった。
 当日、「求める会」の世話人4人が宗務庁応接間において田中さんに聞き取りを行った。同日の夜は蔵王堂で歌舞伎が催されるため、その準備等忙しいなかで約1時間半にわたって話を聞くことができた。
 以下は、そのときの聞き取りの「要約」で、後日、田中さん自らに手を入れていただき、ホームページ掲載の許可をいただいた。
☆☆☆☆☆
田中利典さん(金峯修験本宗宗務総長)のインタビュー(要旨)
・2000年の役行者千三百年御遠忌を、醍醐寺・聖護院・金峯山寺の修験三本山が合同で協力して迎えるために、三本山での協議が始まり、合同法要や役行者特別展覧会などいろんな事業を行ったが、その中の一つとして大峯山の「女人禁制」の問題を協議した。論議する以上、開けることが前提でなければ論議にならないということがあった。
今となって考えると、「女人禁制」はまず「内部」の問題を大事にすべきなのに、「外部」の問題を優先した感じがする。そういう意味では「内部」の意見を充分に確立できずに乱暴な提案になって、洞川や役講社の理解が得られないままに、頓挫した。そのときは、開放するための「声明文」まで用意したが、結果的に頓挫したのは「役行者の神慮」が働いたと思っている。
・大峯信仰は第一義的には「大峯山」修験の信仰を守ることだと考えるが、大峯信仰のアイデンティティーには「女人禁制」が持つ山上ヶ岳一帯の非日常性や、歴史性による聖地性が強く影響している。そう言う意味で現在の大峯信仰は「女人禁制」をはずして聖地性が保たれるとは思えない。
富士山に登って感じたことであるが、「女人禁制」を解いたために大衆化が進みすぎ、信仰の山から観光の山となり、神さびたものや聖なるものが人々から失われたのではないだろうか。明治以降の欧米化による日本人の価値観の変容には、一神教及び近代化によって聖なるものを俗化させた弊害がある。個人的には、女性がいないというコスモゾーン(宇宙観)の存在の大きさを、そのときに感じた。これは宗教上の問題であるだけに、「女人禁制」をなくすことには、信仰上のアイデンティティーを損なう恐れを感じる。聖地性を保つためにも、継続する方がいいと今は考えるようになった。
・「大峯山」に関わる人の思いからすれば、大峯信仰が守られてきたひとつの要素として、女性がいないコスモゾーンによって聖地性が保たれた部分は否めない。大峯信仰は、欧米的な自由平等や人権、男女差別、あるいは金銭的な問題からのアプローチよりも、宗教性、地域性が育んできた風土に意義があると私は思っている。
13年前、信者の減少などの問題を視野に入れ女性信者への開放も考えたが、グローバリゼーションの行き詰まりや近代という幻想が暴かれた今、霊山の持つ宇宙観・信仰の観点から考えることが重要だと思っている。
・私自身は「大峯山」の「女人禁制」をどうすることが修験信仰にとって大事なのか、開ける開けないの問題を通じて真剣に向き合ってきたつもりである。明治政府の政策によっても「女人禁制」を解くことがなく、2000年の役行者御遠忌を前に「女人禁制」について三本山と大峯山寺で協議したが開かれなかった。それらの結果は、最終的にはご本尊と役行者が決められたことだと思っている。
大峯信仰が今日も受け継がれていることは奇蹟であり、人間の都合のようなもので「女人禁制」を解いていいのかと考え続けている。富士山だけでなく、月山、彦山、白山などの聖地性が消えていくのをみても、「女人禁制」区域があることで信仰や聖地性が保たれ、大峯信仰が続いている現実は、「女人禁制」を「神慮」の結果だと思うようになった。
・ジェンダーや人権という外からの声ではなく、信者から「女人禁制」に声が上がったときはまさに内部の問題として考えなければならないだろう。現在、本宗の教師は男性51%、女性49%であり、教師の資格を取っている女性は他の伝統教団よりもはるかに多いし、宗教儀礼や修行会にも男女が同様に出仕(参加)していて、宗門自体が女性を排斥しているわけではない。「女人禁制」の問題も宗門の女性の多くが是として受け入れているように感じる。もちろん少数だが、山上ヶ岳に登りたいという女性もいるが、このままにしてくれという声が多いようだ。決して、女性の声が出てきにくいということはないが、女性修行者にとってどうなんだということは大切に考えなくてはいけない。
・「女人禁制」区域だけでなく、聖地性は大峯連山全体にあるものと私は考えている。蔵王堂も「女人禁制」ではないが聖地性をもっているし、だれでもいつでもお参りするところ、すべての人に蔵王権現の御利益を授けるところとして、役行者は山上に対し、山下の蔵王堂を建立された。ただし現在の山上ヶ岳は「女人禁制」を解いたら俗化が進むだけで、聖地性は損なわれるし、大峰信仰自体を廃れさせていくのではないかと考えるので、「女人禁制」を解くべきではないだろう。
・奥駈道の荒廃は20年前ぐらいから顕著になった。憂慮しているだけでなく、行政にも働きかけて年一回、修験寺院と行政との保全のための協議会を持っているが、なかなか保全活動は進まないのが実情である。靡きの整備にしても国立公園内なので、環境省に伺いを立てなければならず時間がかかる。非力な自分の力だけでは限界を感じる。

・トランスジェンダーの方は、宗内にもおられる。得度されたときは男性だったが、教師資格を取る修行を終えられたときは女性として振る舞われていた。これらの方の「女人禁制」との関わりについては答えを持っているわけではなく、神慮が決めるのではないかと考える。
☆☆☆☆☆
 聞き取りの後の「求める会」の感想としては、前回の福井良盟さんの「男の甘えを許してほしい」にはあぜんとなったが、今回は田中利典さんの「神慮」ということばに驚いた。「女人禁制」を維持するための「方便」であろう。水戸黄門の「印籠」のように思えたものだ。ただし、水戸黄門は悪事を退治するときに使うが、田中さんの「神慮」は、「女人禁制」の開放を求めるわたしたちの運動を“退治”する?……。
「男の甘えを許してほしい」とか「神慮」という言い訳や理由が語られたが、「大峰山女人禁制」の開放に向けて、今後も「大峰山側」の方々とさらに話し合いを続けたい。
(2012年 1月 10日 [火曜日])
福井良盟さん(竹林院住職)との話し合い 
 「大峰山女人禁制」の開放を求める会は、「女人禁制」の開放運動の一環として、「大峰山」を維持管理する関係者と「話し合い」をしたいと考えてきた。その「大峰山」を維持管理するのは、寺院と信者組織からなっているが、寺院は、三本山(聖護院、醍醐寺、金峯山寺)と五護持院(龍泉寺、喜蔵院、東南院、桜本坊、竹林院)である。
 そしてこの度、護持院の一つである竹林院の住職福井良盟さんとの「話し合い」が実現した。日時は2011年4月23日11時30分から、場所は竹林院である。桜の名所として有名な奈良県吉野郡吉野山にある竹林院は、旅館を経営している。「話し合い」は、当旅館での昼食を兼ねて行うことになり、世話人会8人が参加した。千利休の作庭と伝わる庭園「群芳園」はちょうど桜が舞散る美しい季節でもあった。わたしたちは、「群芳園」を散策した後、旅館内の一室に通され、住職の福井さんとの「話し合い」が始まった。「住職の服装にしようかどうか迷ったが、その姿だと威圧感があるかもしれない」といわれ、ジャケット姿だった。
 「食べながら聞いてください」
という福井さんのことばに、わたしたちは箸をとりながら「話し合い」をした。ちなみに昼食には懐石弁当をお願いした。
 以下、1時間20分間にわたる「話し合い」の要旨は、後日、以下のようにまとめ、福井さんにも読んでいただき、HP上に載せる了解を得た。
 なお、竹林院の寺伝によると、竹林院は聖徳太子が開創し、その後、名称が変わったりしながら1385年に現在の名称の寺院になったという。しかし、1868年の「神仏分離令」に伴い、1874年に廃寺となったが、その後、天台宗の寺院として復興し、戦後の1948年、新たに施行された現在の「宗教法人法」のもとで修験道系統の単立寺院となったという。つまり三本山とは宗派関係のない修験道の寺院である。


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福井良盟さん(竹林院住職)との話し合い
               2011年4月23日(土)11:30〜12:50  於:竹林院

・組織に関して
  竹林院だけは本山に属さない
   金峯山寺―東南院、桜本坊
   醍醐寺―龍泉寺
   聖護院―喜蔵院
・1997年のスクープに関して
  2000年に「女人結界」の撤廃を決定
  三本山が協議し、五護持院は承認した
  スクープによって、「女人禁制」はそのままになった
スクープ以来、「女人禁制」について話し合っていない
・「女人禁制」に関して
三本山は開放、五護持院は現状維持
役講(とくに堺の八役講)の開放への絶対的な反対がある
  役講の役割(戸開け式など)が重要なので、その意見を聞かねばならない
信者は、「女人禁制」の開放に納得していない
開放するのに100年はかかる
・修行に関して
  女性がいると修行できない
  女性をケガレとは思っていない
男性登山者については、「アルプス」といい、無視するようにいわれた
15歳の新弟子には、女性がいると修行は無理である
  山の聖地性を認めてほしい
  男の本能かもしれない
  「女人禁制」については、「甘え」論で許してほしい
・女性信者に関して
  男性と女性の信者が、同じ物を着るのはいかがなものか
  女性信者はほとんどいないし、連絡のとりようがない
信者募集のちらしなどに連絡先が書いてあるので調べられたらいい
50の講のうち3~4の講は女性の行者がいる
・地元の女性に関して
  開放するなと泣いて訴えられた
  女の涙には弱い

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「話し合い」後、わたしたちの感想は、「女人禁制」に対して、まったく前向きでない福井さんの態度に失望感があった。
 「男の甘えを許してほしい」
といわれたときには、箸も止まり、唖然としてしまった。
 2003年、わたしたちが運動を始めた当初に、「男の甘え」という人もいた。そして今回、改めて関係者のひとりから、同じことを聞いたのである。それは、「女人禁制」への「男の観念」が依然として変わらないことを直に聞き取ったということである。男性には、「体のいい言葉」であろうが、「開き直り」と理解するほかない。
 「大峰山女人禁制」の開放を求める道は、このような陋習(いやしい習慣)に染まってきたとされる男性ジェンダー意識に男性自身がいかにして気づくのかという問題を提起したいと思う。また、男性だけではなく、あらゆる人の平等な世界へという願いに、関係者すべての人がいかに目覚めるのかという問題提起でもあるのだ。
 福井さんとの「話し合い」には失望感があったが、「大峰山」側の寺院関係者との「話し合い」はこれからも続けたいと考えている。
2011年 10月 1日 [土曜日]

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